ゆるーい、やりたいの連鎖

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さてさて、週末ぷらっと浪江町から東京に戻って来ました。学生から2拠点居住を実践してるようで、なんだかわくわくするな。(支えていただいている方に感謝!!)

 

帰りの電車なので、ぼちぼち執筆です。

 

僕がイナカ(若い人が集まって、ワクワクしている都市部ではないところ)から東京に帰って来て毎回感じるのは、自分の中の「やりたい」というアイデアが溢れ出ることです。

 

東京はどこか閉塞的で、風通しが悪い。もちろん東京と言っても一言では括れないのですが、都心は特にそうです。風通しが悪いと、「やりたい」という気持ちが湧き上がっても「無理だよ」というネガティブ小僧が頭や周りに登場します。そうすると、「やりたい」は「ムリ」に殺され、やがて「やりたい」が生まれなくなってくる。どんどん無感動に進んでいく。これは危険な状態です。

 

私は個別指導塾でアルバイトをしていましたから、中高生と関わる機会がありました。残念ながら彼らの口から「こんなことやりたい!」「今、これが楽しい!」という声を聞くことは少ない。好きなものはないし、詩を読んで感想を聞いても「別に」。文章は「つまらない」し、英語なんて「意味不明」。感受性の装置が不具合を起こしてしまっていて、多感な時期に本来持つはずだった感動がない。そんな子たちと多く出会いました。

 

かくいう私も、中学生時代は暗黒でした。「あれは刑務所か何かで、毎日決められた労働をこなすことで、高校という道が開ける」そう思いながら3年間を過ごしました。(というかそうでも思わないと、卒業は無理だったな)

 

幸せなことに、高校は多分にアウトローな雰囲気(都立の中では)だったので楽しかった!

 

てなわけで、やりたいの連鎖を生むのは周囲の環境だと思います。誰かの「やりたい」に僕も全力で(本当にそう思ったらですが)「イイね!」を心がけます。窓を全開にして、ひとびとのやりたい!がドンドン生まれたらいいな。そんなことを考えました。

未来のアタリマエを生み出す

 

**月一で浪江に

ひょんなことから、月一で福島県浪江町に通うことにした。今のところいつまで続けられるか見通しはついてないし、どんな展開になるかはよく分かっていない。でも、これが町になんらかの影響を与えていることは確かだ。

 

僕の構想では、学部卒業までの2年間は続けたいと思っている。ただ自分が資本なので、あまり疲れ過ぎたら休むと思う。でもそれは何も永遠の別れではなくて、いつでもHi!と戻ってくるような別れだ。

 

**MIRAI 2061

箭内道彦さんと児玉祐一さんがタッグを組んで作った、ショート・ミュージカル・ムービー”MIRAI 2061”が今年の2月に公開された。

 

http://ch.pref.fukushima.lg.jp/mirai2061/:contents

https://youtu.be/mLOeF2pW978:contents

 

私はこのムービーに大変感動した。何を表現しているかということを一度横に置いて、歌が素敵で、ダンスが素敵で、世界観が美しいと思った。何回もリピートしたくなるような完成度だと思った。

 

内容については、これをどう評価するかというのは非常に複雑でコメントがしづらいが、福島が(少なくとも箭内さんは)未来に向かって歩みを進めているのだという箭内さんのメッセージは素敵だと思った。

 

**あの日をどう過ごすか

以前「ふくしまをずっと見ているテレビ」の中で、3.11をどう過ごすかというのが取り上げられていた。箭内道彦さんと音速ラインのメンバーの方は、毎年箭内さんの実家に集まり、3.11はネット配信をしているのだそう。それは、地元の方と一緒にまったり過ごそうよ!という想いがあるそうだ。

 

驚いたのは、被災された方の中で「3月はテレビをつけられない」という方がある程度の数いるということだ。3月は各局が震災の特集を組むし、その中では当時の映像が使われることもある。それは、受け手によっては大変にショックなもので、テレビで流れるのは恐ろしいほどなのだと想像できる。私の母親でさえ、あの映像にはトラウマがあるらしく、見たくないと言っている。

 

もちろん、今の事実をしっかりと認識し、過去に起きたことを整理することは大切である。(歌詞にもその過程を踏むこと、そして人と人が溝を埋めたことが出てくる)ただ、クリエイターとしての箭内道彦さん求められたのは他の人がやっていないこと、つまMIRAIを語ることだったのだと思う。

 

**箭内道彦が語ることば

劇中で使われている楽曲「みらいはすこしふしぎ」は「2061年のラヴソング」という曲の詞がもとになっている。箭内道彦さんが作詞された。

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このムービーで語られる言葉を一つ一つよくよく聞くと、なかなかに考えられている。

 

ムービーの中では福島の過去を語り、未来を語るのだが、そこには1つも「震災」「地震」「復興」などという文字はない。彼は、あの震災と原発事故を「大けが」と表した。原発廃炉は「眠りにつく」と表現した。さすがだな、と思った。背景に使われている木に何が書いてあるのかなと思ったら「驚き桃の木」と書いてある。

 

そうか未来は明るく語るのも暗く語るのも自由だなと思った。

 

* *馴染みのある風景

劇中に出てくる建造物は全て福島に今あるもの、これからできるものである。例えばロボットフィールドは今年から始動し、徐々に拡大していく。野馬追、鶴ヶ城猪苗代湖なんていうのは福島県民にとってソウルシーンのような、誰もが知っているものだ。私自身、鶴ヶ城猪苗代湖を訪れたことがあるので、あの映像が出てきた時、感動して涙が出た。ああ、これは相当福島を知っている人がよく考えて作ったのだろうなと思った。

 

* *自然と姿を重ねた

主人公は2011年当時20代前後の設定である。この主人公に私は自分の姿が重なってみえた。

 

「まさかこんな日が来るとはね」主人公(?)みらいのおばあちゃん、ひかりが呟く。

この一言に大変にたくさんの意味が込められていると思う。50年経ち、福島が日本の新たなコアになってくる。自然と先進技術を交えた日本のトップランナーになる。大けがから立ち直り、3世代目のみらいが楽しそうに踊る。

 

50年後の未来は、今の僕からすれば、まさかの連続だと思う。

「あたりまえのこと

でもちょっと

わたしにとって

みらいはすこし・ふしぎ」

未来のアタリマエは今ここから生み出していく。きっと僕らにはそれができるし、それが今やらなければならないことなのだと思う。3世代先のみらいちゃんが笑顔でクリームボックスを食べられる社会を作るのが、私たちに託されたことではないだろうか。

濃厚豚骨スープはいったいどこにあるのか—Googleの知り得ないローカル

こんばんは。

最近どうも豚骨ラーメンが好きでして、豚骨ラーメン屋を見つけては味を試しているところです。しかしラーメン店主よ、らーめんは凝りすぎるといけない。「どこにもない、特製スープ!」みたいなのはラーメンから、かけ離れてしまうようです。ラーメンの範疇を超えないラーメンこそが、私のイメージできる美味しいラーメンなのであります。

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さて、ああこれは書くべきだなという執筆欲に駆られて書くテーマは、「いったい濃厚豚骨スープはどこにあるのか?」です。

 

もちろんそれは、豚骨スープそのもののことを言っているのではなく、濃厚豚骨スープみたいにこってり、旨味がつまっていて、喉元にぐっと残るようなネタ、経験、景色、ひと、食い物、宿のことを指すのです。中学生の国語の文法問題で言えば、これはとんでもない隠喩であって、絶対に見抜けなかったことでしょう。ははっ。

 

濃い豚骨スープを見つける前に、ありふれたとんこつらーめんを探してみるといいかもしれません。その対極にあるものが、濃厚豚骨なはずです。

 

世界中の隅から隅までインターネットで繋がる時代になり、誰もが途方にくれるほど膨大な情報にアクセス可能になりました。その規模はブログをこうして書いている今も、膨張し続けています。

 

一つこんなストーリーをお話ししたいと思います。僕が修学旅行で初めて京都を訪れた時のことです。修学旅行の日程のうち一日は、タクシーをチャーターして班で好きなところを回るというなかなか楽しい企画でした。(中学生当時の私は大変にひねくれていますので、楽しいなとは思っても表現はしていません)京都といえばやはりお寺が観光地ですから、どの寺を見るか班で話し合いました。「とりあえず有名どころは行きたい」という安直な考えから、誰もが知っている金閣寺竜安寺石庭を見ようということになりました。

 

金閣寺は楽しみの一つでした。「さぞ美しいんだろうな」とワクワクしていました。しかし、いざ金閣寺を目の当たりにすると何だか拍子抜けしてしまったのです。さすがに札幌の時計台よりは心が動きましたが、「なんか違う」というのが正直な感想でした。

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金閣寺の「なんか違う」ポイントはいくつかあります。一つ目に、その迫力です。観光客は池(と呼んでいいんでしょうか)を挟んで向こう岸に金閣寺を望むようなロケーションです。よく写真で見るような迫力はいまひとつありません。二つ目に、金閣寺を取り巻く雰囲気です。金閣寺には、たくさんの観光客がおり、好き放題に写真撮影をし、日本語以外の言葉もかなりのデシベルで飛び交っています。風流なんてどこにもありません。ちょうど、渋谷の「明日の神話」みたいな感じです。あれは素人目でもすごい絵だと分かるのに、あんなところにあるもんだからみんな見向きもしません。かくいう私も、「あっ岡本太郎、ばくはつばくはつ〜」と思いつつ急ぎ足で銀座線に乗り換えるのです。

 

この話を通してつまり何が言いたいかというと、人はある情報について知りすぎると、それが間接的体験だったとしてもあたかも自己が直接体験したように錯覚し、本来直接体験をした際に得るはずだった感動の度合いが下がってしまうということです。

 

では真逆の例をお伝えしましょう。私が初めて秋田県五城目町に行った際、行く先もよく分からず連れられたのは「森山」という山でした。東京から秋田まで高速バスに実に10時間揺られ、疲れ切った所で大学教授のありがたーい英語講義を受け、居眠りをしそうになったところで「しょうた!What do you think?」と聞かれ青ざめたのが午前中でした。ですから、もう山に対してのワクワクなど一切なく、もちろん森山など知る由もなく(町民の皆様、お許しを)途中の狭い山道で脱輪するんじゃないかとヒヤヒヤしただけでした。

 

ところがどっこい、山頂まで来てみると今までに経験したこともないような感動が訪れたのです。あまりの美しさに惚れ惚れしたのを覚えています。もしこれが、「そうだ五城目にいこう」なんてキャッチフレーズで、my favorite thingsにのせた森山からの景色のCMを何百回と見ていたとしたら、この感動は訪れることがなかったと思います。

 

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(この写真はあまり見ないように。感動が薄れまさ)

 

さぁ2つのストーリーを通して、だんだんと濃厚豚骨スープがどこにあるのか見えてきました。Googleで検索した時に、何百件とヒットする情報に人が動かされることはありません。もし、金閣寺を見に行った時に、僕が知らない情報とともに見学をしていたら感じ方も変わっていたと思います。

 

大切なのは、「検索しても出てこない」ところです。今日では、Googleがあんまり知らないことこそ、旨味がギュッと詰まって、ワクワクするとっておきの情報なのです(メディアへの露出が極端に多くないもの)。ネットに載っていないんだったら、自分の足で行くしかありません。誰も写真をアップしていないなら、自分の目で確かめるしかありません。汗水垂らして、人間臭く得た情報ほど、心に残るものはないのです。

 

そんな情報がゴロゴロ転がっているところこそ、「ローカルだ!」と私は思います。ローカルは何も東京でないということではありません。東京にだって、Googleが知らない情報がたくさんあります。そんなローカルこそ、これからどんどん面白さが発掘されるフィールドではないか、そう思うのです。

 

ローカルでは、自分が今まで聞いたことも見たこともないことに溢れています。そんなワクワクする空間は、娯楽飽和の今日なかなかありません。作ろうと思っても作れないのです。

 

そう、濃厚豚骨スープは意外にもローカルにあったのでした。灯台下暗し。めでたしめでたし。